夫が出て行った日。
どんな会話をしたのか、どんな様子だったのか、ほとんど記憶がない。
頭が靄の中にあるような感覚だった。
ただ覚えているのは、三つのことだけ。
離婚することは、確定だった。
財産分与などこれからのことは、週末に話し合うということ。
そして夫は、懇意にしている例の建設会社の「社長」が保有する賃貸物件に、格安で住まわせてもらうということ。
随分と、話が早い。
女の住むマンションに行くのだろうと思っていた。
さすがにそれはわたしには言えないから、「賃貸物件に入居する」と言っているのか。
あるいは、すぐには転がり込めない事情があるのか。
いずれにせよ、「社長」と女は密接に絡んでいる。
桁外れの金を動かす人物らしいその「社長」のもとに身を寄せるということは、もう簡単には抜け出せないだろう。怪しい投資話も深みにはまっていくのだろう。
「社長」が善意で住むところまで格安で提供するとは、到底思えなかった。
夫から引き出せる金がなくなったとき、あの「社長」はどう動くのだろう。
それはそれで、自業自得だ。
わたしは、わたし自身と子どもたちを守らないといけない。
夫と、そのバックにいる「社長」と女と、一日も早く手を切らないといけない。
そのことだけを、強く思っていた。
夫は前日の憤怒の様子とは打って変わって、だいぶ落ち着きを取り戻していた。
それでも表情は険しかった。
もうこの人が、わたしに笑顔を見せることは二度とないのだろう。
「週末、話し合いに来るから」
そう言い残して、夫は出て行った。
わたしは見送ることもなく、
「はい」
とだけ返事をした。
ブオーンという車が発進する音がして、そのうち聞こえなくなった。
実にあっけなかった。
自分の身に起きていることが、現実の出来事とは思えなかった。
数秒後、スマートフォンに通知が届いた。
GPSからのメッセージだった。
「移動を開始しました」

