わたしは夫に、実印と銀行印を返すようLINEで伝えた。
夫の実印を含む印鑑セットは、結婚したときにわたしの母がプレゼントしてくれたものだ。
それを当たり前のように持ち出されたことにも、腹が立った。
夫からの返信は、こうだった。
「勝手に離婚届を出されたり、家を売られたりすると困るから、持って出るのは当たり前だろう」
……はい??
そっくりそのままお返しする。
わたしが勝手に離婚届を出すメリットなんか、一つもない。
財産分与も決まっていない。公正証書も作っていない。そんな状態で、離婚届を出すわけがない。
しかも、家をわたしが勝手に売る??
今、子どもと犬たちとわたしが住んでいる家を?
家は夫名義なのに?
わたしが勝手に売れるわけがない。
夫の言うことは、まったく筋が通っていなかった。
何を言っても、ストレスにしかならなかった。
少なくとも銀行印だけは、わたしや子どもたちの口座の印鑑でもある。
とにかく返してほしいと、懇願した。
初めての「離婚協議」の日
その週末、初めての「離婚協議」の日を迎えた。
夫は昼過ぎに1人でやってきた。
わたしは、「社長」やスピリチュアルの人たちを引き連れてくるのではないかと気が気ではなかったが、さすがにそれはなかった。
ダイニングテーブルのいつもの席に、向き合って座った。
しばしの沈黙。
わたしが先に沈黙を破った。
「離婚の話し合いをする前に、伝えたいことがある……」
「何?」
「家族を選ぶのか、あの人たちを選ぶのか」
「『社長』とか、スピリチュアルの人たちとか……、あなたは今そういう人たちに洗脳されている状態だと思う。
わたしに鬼がついていると子どもたちに言ったらしいけど、言っていることおかしいと思うよ。
わたしとの約束をあっさり破って、子どもたちに離婚のことをべらべらしゃべって……、あの人たちの指示で動いているとか、めちゃくちゃだよ。
でも、もしもあなたが、その人たちから抜けたいと思っているのなら、救い出したいと思うけど」
「……俺が信じてるのは、昔からの伏線があって、色んな事がつながって信じてるのであって、洗脳とかじゃない。信じてない奴からごちゃごちゃ言われたくないし、その話はしたくない」
そう、はっきり言われた。
一応念のためと思って聞いてみたけど、無駄だった。
それがまさに「洗脳」だろう。
わたしも、本心から救い出したいと思って言ったわけではなかった。
23年間の結婚生活を共に送ってきた相手に対する、最後の確認だったのかもしれない。
「わたしたち家族」を選ぶのか。
女を含む社長や、スピリチュアルの人たちを選ぶのか。
夫はあっさり、後者を選んだ。
論点は「財産分与」だけだった
さあ、離婚協議の開始だ。
もう、何も迷うことはない。
わたしたちの離婚協議の論点は、財産分与のみだった。
離婚することは、決まっている。
子どもたちはすでに18歳を超えているため、親権について決める必要はない。
これは本当に助かったと思った。
財産を分けるだけでもしんどいのに、子どもを取られるなんて考えたら、どれだけ神経が削られるか、想像しただけで恐ろしかった。
財産分与……。
このときのわたしは、これほどまでに揉めるとは、思ってもみなかった。
「家とお金をください。できないなら離婚はしません」
わたしは、あえて言った。
「わたしと子どもたちが今までどおりの生活ができるように、家とお金をください。子どもたちが予定どおり大学進学や留学できるようにしてください。それができなくなるのだったら、離婚はしません」
「わかっとるわ! 父親としての責任は果たすよ(怒)」
それなら話は早い。
あなたは有責なのだから。しかも、もう家を捨てて出て行っているのだから。
すべての財産を残して、身一つで女のところへ行ってください。
それが、まぎれもないわたしの望みだった。
が、現実はそんなに甘くなかった。
夫は、がっつり自分の権利を主張してきたのだ。
結婚後に築いた財産は、名義に関わらず1/2ずつ分けるのが原則だ。ただ、それは協議によっていかようにも決めることができる。
わたしとしては、大幅にこちらに有利にしてもらって当たり前だと思っていた。
だって、女を作って出て行ったのは夫なのだから。
自作のエクセルを差し出す夫
夫は、自作のエクセルシートを持参してきた。
退職金、預貯金、株、保険……、それぞれの欄に金額を入れれば、自動で計算されるようになっていた。
ご丁寧に退職金も、現時点での見込み額を入力すれば、婚姻期間/勤続年数を乗じて計算されるように式が組まれていた。
「俺のはもう入力してあるから、あとはあなたが入力してくれ」
夫の前のめりぶりに、苦笑いした。
この人はもう、離婚したくて仕方がないのだ。
最大の争点「自宅」
エクセルには、「自宅」の項目もあった。
財産分与で最ももめる要因となるのが、この「自宅」だ。
自宅は持ち家で、築約20年。ローン残債はない。
思えばこの自宅は、親の援助も受けず、2人だけで築いた共有財産だ。
家計はわたしに任されていたので、少しでもお金に余裕があれば、ローン返済を最優先にしてきた。
ローンが残っていなくて、よかった。
離婚協議を前に、強く感じたことだ。
ただでさえ揉める「自宅」の権利が、ローンが残っていればさらに複雑になっていただろう。
わたしは子どもと犬たちと生活しているのだから、これからもこの自宅に住み続ける必要がある。
今までと同じ生活を送らせてくれる約束なのだから、当然これはわたしがいただく。
そう思っていた。
そこへ、夫の一言。
「例えば家の価値が2千万だとすれば、1千万を俺にくれればいいよ」
はあ?
なんでわたしが1千万を払わないといけないの??
「財産分与っていうのは、そういうもんだ」
なんで? 家とお金をくれるって言ったじゃん。
「うん、だから。住みたいなら半額払えってこと」
「浮気なんてしてませ〜ん」
……ふざけている。
なんで有責のあんたに、そんなことを言われないといけないんだ。
女を作って家を出て行ったのに。
お金をもらうことはあっても、払うことなんて絶対にない。
「浮気なんてしてないし」
「はあ?? 証拠はいろいろありますけど」
「浮気なんてしてませ〜ん! じゃあ証拠出してくださ〜い!」
夫は、まるで低俗な小学生のような言い方をしてきた。
「証拠ならたくさんあるよ。簡単に見つかったよ。でも、出しません。これは最後の最後まで出しません」
わたしは、これまで集めた証拠を、ここで出すつもりはなかった。
切り札として、取っておくつもりだった。
今、下手に証拠を出せば、夫はわたしが鞄やクローゼットを「勝手に」開けたことを責め立ててくるだろう。
23年連れ添った人が、「敵」になった
いつの間にか、浮気を「した」「しない」の、感情的な言い争いになっていた。
何よりも、夫の不誠実な態度に腹が立った。
仮にも23年間、同じ方向を向いて一緒に生活してきたのに。
決して夫婦仲が良いとは言えなかったし、自分勝手で腹が立つ部分もたくさんあったけど、わたしにはない魅力もあったし、尊敬できるところもあった。
家族として、お互いに信頼してやってきたのに。
それが今、わたしの目の前に「敵」として立ちはだかっていた。
わたしと、子どもたちの生活を脅かす存在として。
それが、本当に一番つらかった。
そんな地獄の財産争いが、火ぶたを切って落とされた。
次回
「『証拠を出せ』と迫る夫|切り札を最後まで隠した理由」

